2009年11月 8日 (日)

岐阜・中信旅行記 vol.2

ヨッシーです。今日も引き続き飛騨地方の史跡を巡りました。高山は古来から飛騨国の国府だったため多くの古い建物や街並みが残っていて、二日目も見所十分でした。

信州に戻ってからも時間があったので、安曇野市を中心とした安曇野神話(泉小太郎と八面大王)に関連する史跡を巡りました。こちらも昨年(2008.10.4訪問)の情報を踏まえて、より綿密に史跡散策を行うことができました。

11月8日

高山・発 → 清峰寺・阿多由太神社・熊野神社・安国寺・荒城神社(岐阜・高山) → 林昌寺・増島天満神社・白山神社・江馬氏館跡公園・瑞岸寺(岐阜・飛騨) →(安房トンネル)→ 有明山神社・正福寺(安曇野) → 泉神社・仏崎観音寺(大町) → 山清路公園(生坂) → 和泉神社(安曇野) → 川会神社(池田) → 碌山美術館・穂高神社・東光寺・本陣等々力家(安曇野) → 自宅

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写真は、仏崎観音寺の本堂の右側にある泉小太郎が隠れた岩穴に続く石段です。「隠れる」とは高貴な方が亡くなった時に用いられる表現なので、小太郎が亡くなって埋葬された岩穴、すなわちお墓です。

この石段の前に立って山上を見上げると、この先には更に石垣と鳥居に似た木製の門が見えます。ここから先へは入れませんでしたが、この構造はヨッシーに野見宿禰陵墓(2009.1.2訪問)を思い出させられました。野見宿禰も古代神の一人なので、この陵墓も同時代のものと考えて間違いなく、泉小太郎伝説を裏付ける貴重な史跡と言えます。

泉小太郎(穂高見命)は穂高神社の主祭神ですが、その父母神(白龍王と犀龍)も近くの川会神社と泉神社にそれぞれ祀られて、今も親子で安曇野の地を守り続けています。

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2009年11月 7日 (土)

岐阜旅行記 vol.10

ヨッシーです。3年ぶりに高山(2006.10.1訪問)にやってきました。前回は有名な観光スポットを中心に廻りましたが、今回は歴史建造物(重要文化財)を重点的に巡りました。

今日は好天に恵まれて気温も20℃近くまで上がったため、11月なのにかなり汗をかいてしまいました。

11月7日

自宅 →(塩尻IC~恵那IC)→ 西行硯水公園・西行苑・大井宿本陣跡・横薬師・長国寺・中山道ひし屋資料館・武並神社(恵那) → 下呂温泉合掌村・森八幡神社・禅昌寺・諏訪神社・久津八幡宮(下呂) → 東照宮・飛騨の里・高山別院・日下部民藝館・東山寺院群・川上別邸史跡公園・城山公園・松本家住宅・飛騨高山温泉(高山) → 高山・泊

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写真は、飛騨の里の中心にある五阿弥池と保存のため移築された古民家の景色です。手前の人形は、全国的に有名な「さるぼぼ」です。

飛騨の里は、山城であった松倉城跡の麓に飛騨地方の古民家30棟(内4棟が国の重要文化財)を集めた民俗村です。飛騨と言えば白川郷の合掌造りが有名ですが、この民俗村に移築された古民家の中心は木の皮で屋根を葺いた榑葺きと呼ばれる飛騨中南部の建築です。飛騨地方は信州の木曽地方と同様に木材が豊富であり、飛騨中南部は北部(白川郷など)のように積雪が多くなかったためと考えられます。

一方、「さるぼぼ」は「猿のように真っ赤な顔をした赤ちゃん(ぼぼ)」という意味で、元々は子供の遊び(まま事)道具でした。しかし、「さる=猿(えん)」は災いが「去る」、家庭「円」満に通じる縁起物と考えられるようになって、お守りとして扱われるようになりました。

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2009年6月30日 (火)

岐阜旅行記 vol.9

ヨッシーです。今日は、早起きして仕事前に約1時間程岐阜市内を散策しました。昨晩から降り続いていた雨はどうにか上がりましたが、空気はまだ湿気を吸って重く、山には濃い霧がかかっていました。

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写真は、室町時代後期の岐阜の繁華街・川原町の街並みです。この辺り一帯は幸運にも空襲の被害を免れたため、江戸時代の建物が多く残されています。

川原町は、斎藤道三や織田信長が実施した楽市楽座によって形成・発展してきた商家町です。そして、うだつの上がっている建物の多さからは、当時の川原町の繁栄の程が伺えます。

うだつは、火災の際に隣の家から火が燃え移るのを防ぐため設けられた二階の軒下に建てられた小さな土塀です。万が一火災が発生した際に初めて役に立つものなので、経済的に余裕のない家には設置されていません。このことから、「うだつが上がらない」とは風采が上がらないことの例えとして用いられるようになりました。

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2009年6月29日 (月)

岐阜旅行記 vol.8

ヨッシーです。出張で岐阜にやってきました。日中は何とか持ち堪えていた天気でしたが、夕方からついに激しく雨が降り始めました。そこで、今晩は早めにホテルに入りましたが、雨の中でも長良川では鵜飼が行われていると聞いて早速様子を見に出かけました。

川は増水して流れも速くなっていましたが、6艘の鵜船とたくさんの屋形船が川を明るく照らしていました。

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写真は、長良橋付近の土手から眺めた鵜飼の様子です。長良川の鵜飼は、代々世襲によって受け継がれてきた1300年の歴史を持つ古典漁法です。現在も宮内庁から式部職を与えられた6人の鵜匠たちが長良川・鵜飼の権威と伝統を守り続けています。

1つの鵜船には、10~12羽の鵜を操る「鵜匠」の他に船を操る「とも乗り」と助手の「なか乗り」の3名が乗船しています。この3名がそれぞれの持ち場を完璧に務めることで初めて鵜飼は成立します。

しかしながら、今日の天気ではさすがの鵜飼も、とも乗りは操船に手一杯、なか乗りも船底に溜まった雨水の掻き出しに追われていて、肝心の鵜匠が操る鵜たちも濁った川の水にお手上げの様子でした。

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2009年5月10日 (日)

岐阜旅行記 vol.7

ヨッシーです。長かったGWも最終日となって、信州に帰ってきました。行き(5月2日)と違って今日はもうGWが終わっている方が多いと判断して、今回は通常通り最短コース(名神高速道路)を走りました。途中、岐阜県内で高速道路を降りて東海環状自動車道沿線の史跡に寄り道してきました。

5月10日

栗東・発 →(栗東IC~関ヶ原IC)→ 美濃国分寺・御首神社(大垣) → 日吉公園(神戸) → 墨俣一夜城・墨俣宿・明台寺・墨俣神社(瑞穂) → 円鏡寺(北方) → 白山神社・南泉寺(山県) → 関善光寺・弁慶庵・新長谷寺(関) → 大矢田神社・美濃町並み・美濃橋・長蔵寺・鹿苑寺(美濃) → 高沢公園(関) → 太田宿(美濃加茂) → 諸田公園・明鏡寺(八百津) → 願興寺(御嵩) →(可児御嵩IC~塩尻IC)→ 自宅

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写真は、関善光寺の本堂である善光寺如来堂です。

関善光寺の正式な名前は、宗休寺と言います。元々は阿弥陀如来を祀る大仏殿(摂取殿)を本堂としていましたが、寛政10年(1798年)に信州善光寺大勧進の等順大和尚が見えられた際に得心し、10年の歳月を経て建立されたのが現在の本堂(善光寺如来堂)です。新本堂の落慶を機に信州善光寺と同様、宗教宗派にとらわれない信仰を唱えて関善光寺(ミニ善光寺)と呼ばれるようになり、こちらでも7年に1度だけ御開帳が執り行われています。

本堂は、信州善光寺の本堂をモデルに約3分の1の大きさで造られており、戒壇巡りも用意されています。ただし、こちらの戒壇は卍型(日本唯一)になっていて信州善光寺よりも狭い(歩く距離は短い)ですが複雑で通り抜けるのに結構時間がかかります。関善光寺の御開帳も5月31日までなので、興味のある方はぜひお参りしてみてください。

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2009年4月 6日 (月)

岐阜旅行記 vol.6

ヨッシーです。出張で岐阜にやってきました。今回は日帰り出張ですが、帰りの終電まで時間があったので岐阜市内を散策しました。2008年2月12日の続きです。

4月6日

岐阜善光寺 → 常在寺・正法寺 → 岐阜公園 → 崇福寺・道三塚

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写真は、崇福寺の境内にある織田信長の霊廟です。崇福寺は、信長が居城を小牧城から岐阜城に移した時に自らの菩提寺に定めた由緒あるお寺です。

崇福寺の開基は斎藤道三の一族(血縁はないが)である長弘です。信長の正室・帰蝶が道三の娘であったことがここを菩提寺に定めた一因と考えられます。

崇福寺のすぐ西には、道三塚という斎藤道三の慰霊碑があります。道三塚の北方には鷺山と呼ばれる小高い丘があって、当時この山上には道三の隠居城・鷺山城がありました。道三は最期、稲葉山城(岐阜城)にいた嫡男・義龍に討たれますが、道三塚の辺りがその討たれた場所であると言われています。

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2009年3月22日 (日)

愛知・三重・岐阜旅行記

ヨッシーです。三連休の最終日は、尾張西部を南下しました。今日も朝方は天気が悪く足元が心配でしたが、街中の史跡が多かったためほとんど影響なく散策を楽しむことができました。

3月22日

一宮・発 → 真清田神社・妙興寺(一宮) → 尾張大国霊神社・万徳寺・性海寺・長光寺(稲沢) → 高田寺(北名古屋) → 清洲公園(清須) → 蓮華寺(美和) → 津島神社(津島) → 須成神社(蟹江) →(蟹江IC~桑名東IC)→ 六華苑・浄土寺・七里の渡跡・九華公園・円妙寺・照源寺・多度大社(桑名) → 治水神社(海津) →(大垣IC~塩尻IC)→ 自宅

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写真は、六華苑の旧諸戸氏庭園です。庭園奥に見える洋館は、この庭園のかつての所有者であった諸戸清六の旧邸で国の重要文化財に指定されています。

諸戸清六は、父・清九郎から引き継いだ庄屋業を明治維新を機に一気に拡大し、後に三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎とともに新政府軍の御用米の調達に協力したことから大蔵省の御用蔵となり一躍桑名を代表する大長者になった人物です。

六華苑は、諸戸清六の自邸(和館)や蔵、迎賓館(洋館)とその付属庭園を整備したものです。鹿鳴館の設計者であるジョサイア・コンドル設計の洋館(国重文)と回遊式庭園(国名勝)が見所です。

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2009年3月20日 (金)

岐阜・愛知旅行記 vol.2

ヨッシーです。今日からいよいよ三連休ということで、3月8日の続きで三河から尾張方面の史跡散策に出かけました。スタート地点の三河までは途中、岐阜西部の史跡に寄り道しながら移動しましたが、昨夜からの豪雨の中での散策開始となりました。

大正村に着いた頃には雨が上がって青空も見える好天となりましたが、依然足元は悪くてペースが上がらず三河エリア内で日没を迎えました。しかしながら、最寄の伊勢湾岸自動車道・刈谷PAにハイウェイオアシス・刈谷温泉「かきつばた」があったのは幸いでした。

3月20日

自宅 →(塩尻IC~恵那IC)→ 乗政寺山・岩村城址・八王子神社・龍護寺・大正ロマン館・万ヶ洞天神神社・遠山家屋敷跡・大正村資料館・大正村役場・千畳敷公園(恵那) → 足助城・足助八幡宮・香嵐渓・香積寺・隣松寺(豊田) → 円福寺・松応寺・大林寺・光善寺・祐伝寺・岡崎市郷土館・若宮八幡宮・法蔵寺(岡崎) → 大乗寺(安城) →(豊田南IC~刈谷PA)→ 刈谷温泉(刈谷) → 刈谷・泊

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写真は、龍護寺の山門脇に建てられていた明智光秀の霊廟です。12年前に訪れた時には霊廟はなくヒビの入った墓石を直接拝見できましたが、現在はきれいな霊廟の中に納められています。

岐阜県恵那市明智は、織田信長を討った明智光秀の出身地です。龍護寺は光秀の従兄弟である遠山利景が建立した遠山家の菩提寺であり、その縁で光秀の墓も建てられています。遠山利景は光秀の叔父である明智光安の次男で、長兄の秀満は本能寺の変、山崎の戦いで光秀に同行しています。

明智光安は、遠山家に入って景行と名乗り明智遠山家を興しています。後に遠山家は江戸幕府の旗本となり、景行の11代後の子孫・景元が有名な江戸北町奉行・遠山金四郎(遠山の金さん)です。春日局はじめ光秀の有縁者が江戸幕府の重職に就いているのには大きな秘密が隠されているように感じずにはいられません。

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2008年11月 3日 (月)

岐阜旅行記 vol.5

ヨッシーです。三連休の最終日は、信州への帰途に岐阜県郡上市に寄り道しました。美濃太田から長良川鉄道で1時間30分の長旅でしたが、山中から突然現れた情緒ある城下町に心踊りました。

11月3日

洞泉寺 → 長敬寺 → 安養寺・善光寺・岸剱神社・悟竹院・城山公園

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写真は、城山公園にある山内一豊とその妻・千代の像です。この像が立っている広場がちょうど八幡城の本丸だった場所であり、当に千代(八幡城主・遠藤盛数の娘だという説による)が生まれ育った場所であったと言われています。

この本丸跡からさらに山を登った頂きに天守閣があります。模擬天守ですがコンクリートは使っておらず、城内の間取りは現代風ですが材木を基調としている辺りに飛騨の情緒を感じることができました。

この像は、織田信長の馬揃え(軍事パレード)が行われる晴れの日に、うだつの上がらない夫・一豊のために密かに蓄えていた大金で一流の名馬を用意した千代の内助の功を表したものです。一豊がこの名馬に跨った姿が信長の目に止まって、無名だった一豊は出世の糸口を掴みました。

2人の像の間に見える天守閣が、この名馬を出発に一国一城の主にまで成長した一豊のイメージを引き立てる最高の借景になっていました。

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2008年10月30日 (木)

岐阜旅行記 vol.4

ヨッシーです。出張で岐阜県大垣市にやってきました。仕事が終わってから暗くなるまで少し時間があったので、大垣駅前を散策しました。大垣へは大垣城(2008.1.5)訪問以来、今年二度目です。

10月30日

大垣城・常葉神社・大垣大神宮 → 円通寺 → 全昌寺 → 奥の細道むすびの地・住吉神社・住吉灯台・船町港跡・船町道標 → 大手いこ井の泉

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写真は、奥の細道むすびの地に立っていた松尾芭蕉と俳友・谷木因の像です。大垣は、江戸から奥州・北陸を巡る「奥の細道」の終着地です。

旅を終えた芭蕉は、この地にあった船町港から船で桑名に渡り、故郷・伊賀に帰省しました。この像は、船町を後にする芭蕉を谷木因が見送っている姿を表しています。

大垣は、水の都としても知られています。市内各所には水の湧き出る泉があって、三年間雨が降らなくても水には困らないと言われています。もちろん湧き出る地下水は飲用可能で、ヨッシーも一口美味しく頂戴してきました。

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