2011年3月12日 (土)

京都旅行記 vol.21

ヨッシーです。先日、親が無事に退院することができました。そこで、今回は親の退院祝いのため関西に帰省しました。

ちょうど今日から京都では「東山花灯路」が始まったので、帰省した後、京都へと足を伸ばして久しぶりに歴史建造物の美を堪能しました。

3月12日

青蓮院門跡・知恩院 → 円山公園 → 大雲院・高台寺 → 法観寺 → 清水寺

P31202652

写真は、京都を代表する観光名所・清水の舞台です。観光ガイドによく載っているアングルからの景色ですが、ライトアップされた舞台と遠くに見える市街地の明かりが作り出す夜景はこの機会にしか見ることができません。

東山花灯路は、平成15年(2003年)から始まったまだ歴史の新しい京都の冬の風物詩です。伝統行事の少ない冬期の新たな観光客の呼び込みを狙って企画されたイベントで、神戸ルミナリエを参考に京都の観光資源を生かした贅沢な光の祭典です。平成17年(2005年)からは嵐山でも花灯路が始まって年々知名度が高まっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月25日 (金)

京都旅行記 vol.20

ヨッシーです。今日は、親の手術について家族に説明があるということで、夜行バスに乗って京都にやってきました。京都駅前の景色は昔と大きく変わってしまいましたが、駅前に立つ京都タワーは昔と全く変わりなく懐かしく感じました。

F10003682

京都タワーは、京都市内で一番高い建造物で、高さは131mあります。現在の京都駅が完成するまでは、市街のどこからでも目につく存在でしたが、現在は京都駅より南側からは見えにくくなり、影が薄くなった印象です。

ヨッシーが学生だった頃は、京都タワーのローソク型のデザインを格好悪いと思っていましたが、今改めて近代化した京都駅と見比べると寺社の街・京都に合ったデザインであると感じられます。京都を代表する景色の一つとして定着した京都タワーをこれからもずっと守り続けてほしいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年2月19日 (土)

京都旅行記 vol.19

ヨッシーです。今週末も関西に帰省しました。実家のある滋賀から親の入院している京都大学医学部付属病院までの道中にはたくさんの神社や寺院があったので、参拝していくことにしました。

2月19日

栗東・発 →(栗東~山科・山科~東山)→ 満足稲荷神社 → 本妙寺・聞名寺・妙伝寺 → 熊野神社 → 病院・着

F1000367

写真は、参拝に立ち寄った熊野神社に隣接して建てられていた聖護院八ツ橋の本店です。店先には、「八ツ橋発祥の家」と書かれた大きな提灯が下げられていました。

今では京都の銘菓として有名になった八ツ橋ですが、現在の八ツ橋を完成させて全国に広めた人物は明治12年(1879年)に当地で生まれた西尾為治です。この家は西尾為治の生家でもある歴史的な店舗ですが、現在の会社の規模としては手狭なため、通りを挟んだ向かい側に立派な本社ビルが建てられていました。

熊野神社の境内には、八ツ橋発展の功績をたたえる西尾為治の銅像が立てられていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月15日 (日)

京都旅行記 vol.18

ヨッシーです。3日目は、丹波地方から京都市内へと入りました。亀岡は古来より丹波国の中心地であり亀山と呼ばれていましたが、明智光秀が丹波国を治めると伊勢国(三重県)の亀山との混同を避けるため亀岡と改称されました。

亀岡の中心・亀山城跡は現在、宗教法人大本教団が所有していて、自由に城跡を見学することが出来ません。そこで、亀山城の外堀を整備した南郷公園を訪れましたが、天守閣の鯱瓦のレプリカが置いてあっただけで少々期待外れでした。

8月15日

南丹・発 → 九品寺・普済寺(南丹) → 金輪寺・延福寺・宝林寺・梅田神社・出雲大神宮・丹波国分寺・愛宕神社・南郷公園・光忠寺・宗堅寺(亀岡) →(篠IC~沓掛IC)→ 愛宕念仏寺(京都・右京区) →(嵐山高雄パークウェイ)→ 西明寺・神護寺・高山寺・平岡八幡宮(京都・右京区) →(京都東IC~栗東IC)→ 栗東・泊

P81503162

写真は、高雄三山の一つ・神護寺の鐘楼です。鐘楼自体は元和9年(1623年)に再建されたものですが、中には国宝・三絶の鐘が納められています。

三絶の鐘は、貞観17年(875年)に作成されたもので、名前は銘文を書いた当時の三人の文化人(橘広相、菅原是善、藤原敏行)に由来します。また、三絶の鐘と同様に国宝に指定されている梵鐘は他に2つ(平等院、三井寺)あって、それらは日本三銘鐘と呼ばれています。

ヨッシーは既に神護寺以外の日本三銘鐘に拝観済みだったので、今日が最後の1つへの拝観となる予定でしたが、肝心の三絶の鐘は一般公開されていなかったのが非常に残念でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月14日 (土)

京都旅行記 vol.17

ヨッシーです。2日目は、京都府北部を丹後地方から丹波地方へと南下しました。丹後・丹波地方にある籠神社と皇大神社・豊受神社は、元伊勢神社と呼ばれていて、現在の伊勢神宮の前身と言われています。昨日の若狭地方と同様に丹後・丹波地方もまた日本の成り立ちと関係深い地域でした。

8月14日

京丹後・発 → 縁城寺・常立寺・小町公園・妙性寺(京丹後) → 丹後国分寺・丹後郷土資料館・籠神社・傘松公園・成相寺・智恩寺・天橋立・天橋立ビューランド(宮津) → 皇大神社・天の岩戸神社・豊受神社・島田神社・福知山城・円覚寺(福知山) →(福知山IC~綾部安国寺IC)→ 安国寺・石田神社・光明寺・金剛寺(綾部) → 大福光寺・九手神社(京丹波) →(丹波IC~園部IC)→ 徳雲寺・春日神社・普門院・ひよし温泉(南丹) → 南丹・泊

P81404482

写真は、福知山城の天守閣です。築城当時のものは石垣部分のみで、天守閣は昭和61年(1986年)に復元されたものです。

福知山城は、織田信長から丹波亀山城(亀岡市)を預かっていた明智光秀が丹波国全域を制圧した際に全域を統治するため国の中心に新たに築いた平山城です。丹波国は信長の支配に最も抵抗した国の一つであり、制圧後には一日も早く国内外に力を示すような権威の象徴となる城郭を築く必要がありました。そのような事情から、福知山城の石垣には転用石として大量の墓石が使用されました。

転用石を使用した理由は石を切り出す時間がなかったためだと言われていますが、この石垣を眺めてヨッシーが強く感じたのは、抵抗した丹波国民への仕打ち(祖先の墓の破壊と信仰の否定)と現在敵対している勢力への見せしめを目的とした狂気でした。写真の石垣部分を拡大していただくと転用石として利用された墓石(五輪塔、宝篋印塔)の一部が複数確認できます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月13日 (金)

福井・京都旅行記

ヨッシーです。いよいよ、今日から夏期休暇が始まりました。今年の夏期休暇は4日間しかないので、比較的近場で訪問できていない地域・若狭~北近畿を巡ることにしました。

1日目は、福井県若狭地方から舞鶴方面へと走りました。若狭地方は、かつては福井(越前国)とは別の国(若狭国)であり、その中心都市の小浜市には国都らしく重要な史跡がたくさん見られました。

8月13日

自宅 →(塩尻IC~敦賀IC)→ 金ヶ崎緑地・市立博物館・晴明神社・来迎寺・西福寺(敦賀) → 明通寺・国分寺・若狭姫神社・若狭彦神社・神宮寺・妙楽寺・佛國寺・発心寺・小浜病院・小浜神社・源應寺・羽賀寺・空印寺・栖雲寺・常高寺・飯盛寺(小浜) → 長福寺・中山寺(高浜) → 金剛院・北吸トンネル・赤れんが博物館・市政記念館・舞鶴公園・本行寺・見樹寺(舞鶴) → 安寿の里もみじ公園・由良川橋梁・天満宮・大頂寺(宮津) → 小野小町温泉(京丹後) → 京丹後・泊

P81303482

写真は、空印寺の境内にある八百比丘尼の入定洞岩窟です。八百比丘尼の伝説は全国各地にありますが、その発祥地は当地(小浜)であると言われています。

八百比丘尼は、小浜の高橋権太夫という長者の娘でしたが、長者が竜宮から持ち帰った人魚の肉を食べて不老長寿となり、全国を行脚して土地開発と人倫道徳を説いて廻った伝説上の人物です。16歳で不老長寿になってから120歳で落髪して尼となり、270歳で全国行脚の旅に出て795歳で小浜に帰り800歳で当地に入定して、八百比丘尼として語り継がれるようになりました。

小浜には、海幸山幸伝説(天皇家の発祥)を伝える若狭彦神社や奈良東大寺二月堂への「お水送り」の伝統を受け継ぐ神宮寺などもあって、歴史と伝説に満ちた興味深い町でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月14日 (火)

京都旅行記 vol.16

ヨッシーです。今日は午後から仕事なので、午前中に京都市内を散策しました。一昨日前に引き続き、左京区の寺院を巡りました。

晴天に恵まれた3連休とは打って変わっての雨模様で、肌寒い一日でした。

10月14日

金地院・真乗院 → 真如堂・金戒光明寺 → 聖護院

Rimg00222

写真は、南禅寺門前にある南禅寺派寺院の1つ・金地院の境内に建つ東照宮の御社殿です。

東照宮は、徳川家康の腹臣・以心(金地院)崇伝が家康の形見である遺髪と念持仏を祀るため自身の寺院の境内に寛永5年(1628年)に建立したもので、国の重要文化財に指定されています。一見地味な建築ではありますが、御社殿の天井には狩野探幽の筆による龍の絵が描かれているなど美術的な価値の高い建築となっています。

金地院は、以心崇伝以来幕末まで僧録司(宗教界の取り締まり)の地位を任された大寺であり、伏見城の御殿を移築したものと伝わる方丈も国の重要文化財に指定されています。また、方丈前の庭園「鶴亀の庭」も当代随一の芸術家・小堀遠州の作庭によるものであり、当に御所に匹敵する品位と風格に満ち溢れていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月12日 (日)

京都旅行記 vol.15

ヨッシーです。3連休の2日目は、昨日の続きで京都西部を南下した後、余った時間をまだ廻れていなかった京都北東部の散策に充てました。3連休の中日とあって、どこも大変な人混みでした。

10月12日

栗東・発 →(栗東~嵯峨嵐山)→ 落柿舎・二尊院・常寂光院・御髪神社・野宮神社・天龍寺・渡月橋(京都・右京区) → 法輪寺(京都・西京区) →(嵐山~松尾)→ 梅宮大社(京都・右京区) → 松尾大社・月読神社・地蔵院(京都・西京区) →(上桂~河原町・四条~出町柳・出町柳~一乗寺)→ 一乗寺下り松・金福寺・詩仙堂・八大神社・圓光寺・曼殊院門跡(京都・左京区) →(修学院~三宅八幡)→ 三宅八幡神社・山住神社・岩倉具視幽棲旧宅・実相院(京都・左京区) →(岩倉~出町柳・出町柳~三条・三条~山科・山科~栗東)→ 栗東・泊

Pa1204332

写真は、岩倉具視が幽棲していた旧宅です。この茅葺の建物の裏にはもう一棟、棟続きでほぼ同じ広さの瓦葺建物があります。

岩倉具視は、旧五百円紙幣の人物画で有名な明治時代の官僚です。岩倉家は身分の低い公家の家系でしたが、具視は弱体化した江戸幕府に代わって朝廷が主導権を握るには人材育成と実力主義の導入が不可欠であることを主張し、関白・鷹司政通の支持を受けて台頭していきました。そして、幕府を朝廷の言いなりにすべく和宮降嫁を実現させました。

しかし、朝廷内では和宮の降嫁は幕府に対する謙りと取る者も多く、幕府側との癒着を疑われて失脚し、尊攘派に命を狙われることになりました。この旧宅は、具視が足掛け6年隠棲していたときの住居ですが、一般の民家(農家)と全く変わらず、公家出身の具視には屈辱的な日々であったことが想像されます。ここで腐らずにじっくりと力を蓄えて再び政治の中心に返り咲いた具視の強い信念に自分も肖りたいと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月11日 (土)

京都旅行記 vol.14

ヨッシーです。今日から3連休ということで、京都にやってきました。暑かった京都も秋らしくすっかり涼しくなっていて、最高の行楽日和でした。今回は、京都市北西部を北から西に向かって歩いてみました。

10月11日

栗東・発 →(栗東~京都・市バス)→ 鹿苑寺・敷地神社・平野神社(京都・北区) → 北野天満宮(京都・上京区) → 等持院(京都・北区) → 龍安寺・仁和寺・妙心寺・法金剛院・広隆寺(京都・右京区) →(太秦広隆寺~鹿王院)→ 鹿王院・大覚寺・清凉寺・宝筐院・祇王寺・滝口寺・化野念仏寺(京都・右京区) →(嵯峨嵐山~栗東)→ 栗東・泊

Pa1100842

写真は、京都に5つある国宝神社建造物の1つ、北野天満宮・御社殿です。天満宮とは、学問の神様として有名な菅原道真(天神様)を祀る神社の総称で、北野天満宮はその総本宮です。

国宝の御社殿は、慶長12年(1607年)に豊臣秀頼が造営したもので、本殿と拝殿を石の間で繋ぐ権現造りの代表建築です。権現造りでは、本殿から拝殿までを一体の建造物とみなして御社殿と呼んでいます。

菅原道真は、平安時代の優秀な政治家で若くして右大臣にまで出世しましたが、政権争いに敗れて延喜元年(901年)大宰府に左遷され、2年後に失意のうちに病没しました。その後、京都では天災が相次いで道真の祟りであると囁かれはじめたことから、道真は火雷天神の化身であるとされ、その怒りを慰撫するため天暦元年(947年)北野の地に天満宮が建立されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月27日 (水)

京都旅行記 vol.13

ヨッシーです。昨日、関西にやってきました。今日は、午後から仕事なので午前中に京都西部を散策しました。向日駅から長岡京駅まで西国街道を歩いてみました。

8月27日

須田家住宅・向日神社・大極殿公園(向日) → 長岡天満宮・神足神社・勝竜寺城公園(長岡京)

Rimg00782

写真は、勝竜寺城公園内に立てられた細川忠興と玉(ガラシャ)の像です。

勝龍寺城は、室町時代初期に京都の南西方面(山崎口)を護るために築城されました。そして、城主には室町幕府の管領・細川家が務めてきました。細川家は、後に織田信長によって丹後国・宮津城に移されますが、その最後の城主が細川忠興の父・藤孝(幽斎)でした。当時の細川家は、明智光秀の与力であったことから、嫡男・忠興の正室には光秀の三女・玉を迎えることになりました。

戦国時代によくある政略結婚でしたが、玉は父に似た才色兼備の女性で、忠興も玉を溺愛したオシドリ夫婦で知られています。本能寺の変後、玉は反逆者の娘となったため父・藤孝から離縁するように迫られましたが、忠興はその意見を退けてそのまま家中に匿いました。玉は西洋の文化や思想にも関心を持ち、キリスト教の洗礼名・ガラシャという洋名でも有名です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)